建築書の買取について解説

建築書の買取について解説

建築書とは

建築書とは

建築書とは、建築様式や建築デザイン、持続可能な建築、都市計画、建築技術、建築材料、建築の多岐にわたる側面を研究する専門書や設計のアプローチを提供する書籍など、建築に関連するさまざまな分野について書かれた専門書を指します。建築書は、建築家、建築学者、デザイナー、学生など、建築に携わる人々や建築に関心を持つ人々のために書かれたものであり、実務の参考書や学術的な研究資料としても用いられます。

建築書の種類

建築書の主な種類は以下です。

      
  • ・建築理論書
  •   
  • ・建築史書
  •   
  • ・建築法規書
  •   
  • ・建材・施工技術書
  •   
  • ・建築家の作品集
  •   
  • ・建築様式(バロック建築、アール・デコ、アール・ヌーヴォー、モダニズム建築、数寄屋造りなど)
  •   
  • ・土木工事(駅舎、隧道、鉄道敷設、普請工事など)
  •   
  • ・都市計画(公園、ランドスケープ、街づくり、復興誌など)
  •   
  • ・社寺建造物(社寺、城郭、茶室、庭園、歴史的建造物など)
  •   
  • ・青焼き設計図面
  •   
  • ・建築デザイン、図案

買取のポイント

買取のポイント

1. 版と発行年の重要性

類書が少ない・限定版は発行部数が少ない場合は評価されやすいです。
ただし、実用的な内容である建築理論書、建築法規、施工技術書などは、版が新しいほうが好ましいです。

2. 専門分野の需要

高く評価される分野は以下の通りです。

      
  • ・建築史
  •   
  • ・代表的な建築家の作品集
  •   
  • ・建築様式(建築史や建築デザインと重なる)
  •   
  • ・土木工事(土木工事誌(道路、橋梁など)は行き渡っているために評価が低いが、戦前鉄道敷設、鉄道工事などは未だ評価できる)
  •   
  • ・都市計画(特に戦前以前)
  •   
  • ・社寺建造物(社寺、城郭、茶室、庭園、歴史的建造物など)
  •   
  • ・青焼き設計図面(特に戦前で現存していない建造物など)
  •   
  • ・建築デザイン、図案

3. 書籍の状態

以下のような状態の場合、評価が高くなりやすいです。

      
  • ・函カバーが揃っている
  •   
  • ・ページの破れや汚れが少ない
  •   
  • 特に図版の多い書籍では、図がきれいに保存されているとよいとされます。
  •   
  • ・書き込みやマーカーがない
  •   
  • ・付属品が揃っている
  •   
  • 付図、付録、CD-ROMなどの付属品が揃っていると評価が高くなりやすいです。

4. 出版社と著者の信頼性

建築専門出版社、学術系出版社の書籍は評価されやすいです。
以下は建築関係の主な出版社です。

      
  • ・建築専門出版社
  •   
  • ・新建築社
  •   
  • ・彰国社
  •   
  • ・鹿島出版会
  •   
  • ・A.D.A.EDITA
  •   
  • ・日本建築学会
  •   
  • ・中央公論美術出版
  •   
  • ・洪洋社(現存していない)

代表的な建築家

代表的な建築家

ここでは、代表的な建築家について紹介します。

辰野金吾(たつのきんご)

西洋建築を学んだ最初の日本人建築家のうちの一人。明治の三大建物といわれる建物のうちの2つ、日本銀行本店と東京駅を設計した。色鮮やかな赤レンガ造りのヨーロッパ風ルネサンス様式の建物は「辰野式建物」と呼ばれている。


伊東忠太(いとう ちゅうた)

日本で初めて建築学を科学として確立し、日本の建築芸術の発展を研究した建築家である。 中国やインドなどの仏教遺跡を調査し、文化財の保存にも貢献した。彼の設計には平安神宮、明治神宮、大倉集古館、築地本願寺などがあり、100点を超える。さらに、米沢有為会を設立し、郷土の人材育成に尽力。米沢市名誉市民第1号にも選ばれた。


吉村順三(よしむら じゅんぞう)

日本の伝統と風土を融合させたモダニズム建築を追求した建築家である。アントニン・レーモンド事務所で学び、帰国後に設計活動を開始。代表作には国際文化会館、奈良国立博物館、八ヶ岳高原音楽堂などがある。特に木造住宅設計を重視し、自然と調和した生活空間を創出した。


村野藤吾(むらの とうご)

日本の近代建築を独自の立場から推進する、昭和を代表する建築家である。部材の細部にまでこだわり、手づくりの温かみを大切にした。戦後の合理主義・機能主義に偏った建築に対して、人間中心主義を提唱し、ヒューマニズムに満ちた作品を生み出し続けた。


白井晟一(しらい せいいち)

1905年に京都で生まれ、京都高等工芸学校を卒業後、ドイツに留学し、ハイデルベルク大学とベルリン大学で近世ドイツ哲学とゴシック建築を学んだ。1933年に帰国後、「河村邸」や「近藤邸」などの設計を手がけ、建築家としての道を進む。生涯で高村光太郎賞や日本建築学会賞など多くの賞を受賞し、その作品は建築専門誌だけでなく一般のメディアにも取り上げられた。さらに、白井は装丁デザインや書家としても活躍し、中央公論新社の装丁デザインは今も使用され続けている。


吉田五十八(よしだ いそや)

昭和期に歌舞伎座や吉田茂邸など多くの近代和風建築を手掛けた建築家である。特に、世田谷の成城五丁目猪股庭園で、建物と庭園のシームレスな関係性が印象的。岩城亘太郎などの名造園家と協力し、多くの庭園作品も手がけた。幼少時より歌舞伎に親しみ、数寄屋造のモダン化を進めた彼は、現代の料亭や旅館にも多大な影響を与え続けている。


岸田日出刀(きしだ ひでと)

1899年鳥取県生まれ。1922年東京帝国大学工学部建築学科を卒業し、営繕課に勤務。1925年助教授となり、翌年まで欧米出張。1929年に工学博士号を取得し教授に就任、前川國男や丹下健三らを育成。1960年には東京オリンピック施設特別委員会委員長を務め、1966年に逝去。主な受賞歴は、1941年勲三等瑞宝章、1950年日本芸術院賞などがある。


堀口捨己(ほりぐち すてみ)

堀口捨己(1895年-1984年)は、1920年の分離派建築会結成時に中心的な役割を果たし、1930年代には日本を代表する国際様式建築を築いた建築家である。西欧の近代建築を早期に取り入れつつ、茶室や数寄屋建築においても優れた研究成果を残し、戦後には現代数寄屋建築の発展に寄与した。茶の湯や和歌にも通じ、建築や庭園の設計を超えた幅広い創造活動により、日本の建築界に独自の影響を与え続けた稀有な存在である。


丹下健三(たんげ けんぞう)

丹下健三(1913年生まれ)は、大阪府出身の建築家である。幼少期を中国で過ごした後、愛媛県で学んだ。1935年に東京帝国大学に入学し、卒業後は建築士としてキャリアをスタートさせた。広島平和記念公園や国立代々木競技場、東京都庁など、多くの公共施設を手がけ、都市計画にも関与した。特に「東京計画1960」と「東京計画1986」を発表し、1970年の日本万国博覧会のマスタープランも設計した。


内田祥哉(うちだ よしちか)

1925年に東京で生まれ。1947年に東京大学建築学科を卒業後、逓信省に入省。代表作に東京中央学園講堂や霞ヶ関電話局があり、1961年には工学博士を取得。『建築生産のオープンシステム』などの著作があり、多くの研究者を育てた。1970年から東京大学教授を務め、1986年から明治大学教授に。1996年に内田祥哉建築研究所を設立し、2021年に逝去。


吉阪隆正(よしざか たかまさ)

吉阪隆正は、戦後復興期から1980年まで活躍した建築家であり、今和次郎やル・コルビュジエに師事した。代表作に《吉阪自邸》や《ヴェネチア・ビエンナーレ日本館》、日本建築学会賞を受賞した《アテネ・フランセ》があり、独自のコンクリート造形で知られている。


清家清(せいけ きよし)

戦後日本の住宅建築の基礎を築いた建築家で、人間中心の快適な住まい作りを提唱した。東京芸大や東工大の教授、日本建築学会会長を務め、半世紀にわたり建築界をリードした。「住まいの原点はワンルーム」との持論を持つ。


槇文彦(まき ふみひこ)

1928年東京生まれ。1952年に東京大学工学部建築学科を卒業後、ハーバード大学大学院を修了し、ニューヨークで設計事務所に勤務、ワシントン大学で教鞭を取った。1960年、「メタボリズム」に参画し、個と全体の問題に取り組んだ。代表作にヒルサイドテラス、スパイラル、幕張メッセ、東京体育館などがあり、1979年から1989年まで東京大学で教授を務めた。


菊竹清訓(きくたけ きよのり)

菊竹清訓は福岡生まれの建築家で、「村野・森建築設計事務所」で建築を学び、チタン屋根など斬新なデザインで知られる。鉄筋コンクリートを用い、都市の進化に応じた建築を提唱し、都内に「スカイハウス」を残した。国立博物館の設計にも携わり、多くのプロジェクトに参加した。「軸力ドームの理論とデザイン」で工学博士号を取得したのは1995年で、事務所独立から50年後のことである。


黒川紀章(くろかわ きしょう)

1960年、26歳で理論運動「メタボリズム」を結成し、世界に衝撃的なデビューを果たす。以後、機械の時代から生命の時代への変革を提唱し続けた。共生や新陳代謝、情報、リサイクル、エコロジーなど、45年間提言してきたコンセプトはすべて「生命の原理」に基づいている。その活動は20ヶ国に及び、作品は高く評価されている。これによりフランス建築アカデミーのゴールドメダルや日本芸術院賞など多くの賞を受賞している。


磯崎新(いそざき あらた)

1931年に大分市で生まれ、1954年に東京大学工学部建築学科を卒業。1963年に磯崎新アトリエを設立し、大分県立中央図書館など60年代の建築群を実現。その後、90年代には国内外で数多くの作品を手掛け、特に中東や中国、中央アジアにおいても独自の思考と空間を展開した。建築を通じて政治・社会・文化に深く触れ、他領域にも影響を与えた。彼の活動は、建築の枠を超えて思想や芸術との交錯を生み出している。


フランク・ロイド・ライト

フランク・ロイド・ライト(1867-1959)は、アメリカ生まれの近代建築の巨匠である。建築家としての顔に加え、浮世絵愛好家でもあり、浮世絵が縁で来日した。彼は「帝国ホテル二代目本館」や「自由学園明日館」を手掛け、日本との深い結び付きがある。独立後は「プレイリースタイル」を打ち出し、建物の高さを抑え、水平線を強調し、大きなワンルームで部屋を緩やかにつなぐ様式を広めた。


ジョサイア・コンドル

ジョサイア・コンドルは、工部大学校(現東京大学)に御雇外国人建築家として招かれ、1877年に来日した。雇用契約には工部大学校造家学科の教師と工部省営繕局顧問の役割が含まれており、日本人建築家の養成と本格的な西洋建築の建設を進めた。コンドルから学んだ第1期生4人が卒業し、その後在任期間中に21人の日本人建築家を輩出した。


アントニン・レーモンド

ボヘミア地方グラドノ(現在のチェコ共和国)生まれ。1919年に近代建築の巨匠フランク・ロイド・ライトの助手として帝国ホテル建設のため来日。その後1973年に85歳で日本を去るまで、戦前の18年間と戦後の26年間を合わせて44年間日本に滞在し、自然と風土に根ざした実用的で美しい建物を手掛けた。日本独自のモダニズム建築を確立した前川國男や吉村順三からも師と仰がれた。


ヴァルター・グロピウス

モダニズムを代表するドイツ人建築家であり、近代建築の三大巨匠(ル・コルビュジエ、フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエ)に加え、四人目の巨匠とされている。彼は「造形は機能に従う」と主張し、統一された様式であるインターナショナルスタイルを提唱した。デッサウのバウハウス校舎はその実例であり、モダニズム建築の代表作として広く知られている。後にアメリカのフィリップ・ジョンソンの企画でニューヨークMOMAにてインターナショナルスタイルの展覧会が開催され、建築界の主流となった。


ブルーノ・タウト

ブルーノ・タウトは1880年5月4日、ドイツの東プロイセン・ケーニヒスブルクに生まれた。建築学校を卒業後、ジャポニズムやアールヌーボーに影響を受けて日本に関心を持つ。画家になることを迷ったが、ヘードヴィヒと結婚し、ベルリンで建築設計事務所を開設。博覧会出品作や色彩豊かなジードルンク(住宅団地)などが国際的に評価された。しかし、ナチス政権の台頭により危険を感じたタウトは、日本インターナショナル建築会の招待を受け、エリカ・ヴィティヒと共に日本に亡命した。


ル・コルビュジエ

ル・コルビュジエ(1887~1965)は、スイス生まれでフランスで活躍した20世紀を代表する建築家であり、近代建築の礎を築いた。鉄筋コンクリートを用いた「ドミノ・システム」、理想的環境を考えた都市造りの「輝く都市」、身体に合う建築寸法の黄金比「モデュロール」を提唱し、これらを基に「近代都市の5原則」を発表した。彼は建築業界に革新的な影響を与え、世界中の都市計画にも関わった。

代表的な建築史家

代表的な建築史家

以下は代表的な建築史家です。

天沼俊一(あまぬま しゅんいち)

明治9年東京市に生れ、同35年東京帝国大学工科大学建築学科を卒業した。同39年奈良県技師に任じ、古社寺修理技師を命ぜられ、大正5年法隆寺壁画保存方法調査委員を嘱託された。同7年京都府技師に転じ、同8年工学博士の学位を与えられた。同9年京都帝国大学助教授、兼て京都府技師に任ぜられた。同10年建築史研究のため海外留学を命ぜられ、アメリカ、ヨーロツパ、エジプト及びインドを巡歴して同12年帰朝、同年京都帝国大学教授に任じ、建築学第三講義を担任した。昭和8年朝鮮総督府宝物古蹟名勝天然紀念物保存会委員 同10年重要美術品等調査委員となつた。同年欧亜各国へ出張、同11年帰朝した。同年退官、京都帝国大学工学部講師となつた。晩年四天王寺の再建に尽力した。その著書、論文は多数にのぼるが、単行図書に「日本建築史図録」「日本の建築」「日本建築」「日本古建築行脚」「坡西土から坡西土へ」「成蟲楼随筆」等がある。


足立康(あだち やすし)

享年44、明治31年7月10日、神奈川県中郡足立留次郎の三男として生まれる。東京に移り、五高を経て東京帝大工学部造兵学科を卒業。さらに文学部美術史科に入学し、工学部大学院で建築史を専攻。昭和8年に「薬師寺塔婆の研究」で工学博士号を取得。日本古文化研究所理事として藤原宮阯の調査に尽力し、成果として「藤原宮阯伝説地高殿の調査」を刊行。さらに「建築史」を創刊し、昭和16年には「法隆寺再建非再建論争史」を編纂した。著書には「薬師寺伽藍の研究」や「日本建築史」などがある。


伊東忠太(いとう ちゅうた)

日本で初めて建築学を科学として確立し、日本の建築芸術の発展を研究した建築家である。 中国やインドなどの仏教遺跡を調査し、文化財の保存にも貢献した。彼の設計には平安神宮、明治神宮、大倉集古館、築地本願寺などがあり、100点を超える。さらに、米沢有為会を設立し、郷土の人材育成に尽力。米沢市名誉市民第1号にも選ばれた。


伊藤ていじ(いとうでいじ)

1922年1月11日、岐阜県安八郡北杭瀬村に生まれる。1942年、第四高等学校を卒業後、東京帝国大学第二工学部建築学科に入学し、1945年に卒業。東京大学大学院を経て、1948年に副手、1949年に助手となる。病気療養を経て、1963年から65年までワシントン大学の客員教授を務め、1972年に工学院大学教授、1975年には学長、1978年に理事長に就任。1992年に退官し名誉教授となる。97年から99年まで文化財建造物保存技術協会理事長を務める。民家を中心とした日本の中近世住宅史を研究し、建築文化の海外紹介や建築評論でも活躍した。


太田博太郎(おおた ひろたろう)

1912年、東京に生まれる。1935年、東京帝国大学工学部建築学科を卒業。その後、東京大学助教授・教授を経て名誉教授となり、武蔵野美術大学教授、九州芸術工科大学学長、武蔵学園長を歴任。日本学士院会員でもあり、2007年に没した。


陣内 秀信(じんない ひでのぶ)

1947年、福岡県に生まれる。1973年からイタリア政府給費留学生としてヴェネツィア建築大学に留学し、1976年にはユネスコのローマ・センターにも留学。帰国後、1983年に東京大学大学院工学系研究科博士課程を修了。東京大学工学部助手、法政大学工学部建築学科助教授を経て、現職に就く。専門はイタリア建築・都市史であり、『東京の空間人類学』でサントリー学芸賞を受賞。著書には『都市のルネサンス―イタリア建築の現在』や『シチリア―<南>の再発見』など多数。


鈴木博之(すずき ひろゆき)

1945年5月14日、埼玉県で出生。江戸期に幕臣を務めた家系で東京で育つ。1968年、東京大学工学部建築学科を卒業後、大学院に進学。日本建築学会や建築史学会で活躍し、1997年には日本建築学会副会長、2003年から2005年まで建築史学会会長、同年から2007年まで監事を務める。2010年からは博物館明治村の館長を務めている。著作目録は『建築史学』63号(2014年9月)に掲載されている。


鈴木嘉吉(すずき かきち)

昭和3年、東京都に生まれる。東京大学工学部を卒業し、1947年に奈良国立文化財研究所に入所。建造物研究室長、平城宮跡発掘調査部長、文化庁文化財保護部建造物課長、文化財鑑査官を歴任。1961年から平成6年まで奈良国立文化財研究所長を務める。法隆寺や東大寺、興福寺、薬師寺など古代寺院の建築を研究し、新たな知見を発信。近年、国宝・薬師寺東塔の保存修理事業専門委員会委員長を務め、寺院建築の修理に貢献。東大寺の境内整備や興福寺の中金堂再建も指導した。


関野貞(せきの ただし)

関野は明治元年(1868年)に生まれ、東京帝国大学工科大学造家学科で建築学を学び、明治28年(1895年)に卒業。明治29年12月に古社寺修理工事監督として奈良に赴任し、明治30年6月には奈良県技師に任命される。在任中、奈良や周辺の古建築・古美術、平城京などの文化財を精力的に調査。明治34年2月に東京帝国大学工科大学助教授に就任し、奈良赴任時の知見を基に「法隆寺金堂・塔婆及中門非再建論」や「平城京及大内裏考」など重要な論考を執筆。また、朝鮮や中国にも足を運び、建築・美術史に対する造詣を深めた。昭和3年(1928年)に東京帝国大学を定年退官。


中村昌生(なかむら まさお)

清羽亭の設計者であり、数寄屋建築家・建築史家である。1960年、伝統技術の継承と発展を目指して(財)京都伝統建築技術協会を設立し、理事長を務める。茶室や数寄屋建築の研究の権威として知られ、全国各地で多くの「公共茶室」を設計。また、伝統建築技術の継承・発展に向けた活動は、日本社会に大きな貢献をもたらした。


西澤泰彦(にしざわ やすひこ)

1960年、愛知県に生まれる。名古屋大学を卒業後、東京大学大学院や中国の清華大学に留学。現在、名古屋大学環境学研究科の准教授を務める。著書に『日本植民地建築論』(名古屋大学出版会)などがあり、2009年には日本建築学会賞(論文)を受賞している。


橋爪紳也(はしづめ しんや)

京都大学大学院および大阪大学大学院を修了し、工学博士を取得。創造都市や都市文化施設、商業施設に関する総合的な研究を展開する。観光政策の立案や市民参加型のまちづくり、地域ブランディングを実践。また、関西の都市政策や都市文化を研究し、大阪府と大阪市の特別顧問として万博誘致に構想段階から携わっている。


藤井恵介(ふじい けいすけ)

東京大学工学部を卒業し、現在は東京大学名誉教授。工学博士で、日本建築史を専攻。主な著書に『法隆寺Ⅱ』(保育社)、『図説・日本の仏教Ⅱ 密教』(共著、新潮社)、『薬師寺』(里文出版)、『日本名建築写真選集9 醍醐寺』(新潮社)、『金沢文庫資料全書第9巻 寺院指図編』(共著、神奈川県立金沢文庫)などがある。


藤島亥治郎(ふじしま がいじろう)

1899年5月1日、円山四条派の日本画家・藤島静村の子として岩手県盛岡市に生まれる。生後すぐに東京へ転住。第六高等学校を経て、1920年に東京帝国大学工学部建築学科に入学し、伊東忠太、関野貞、塚本靖の指導を受ける。特に関野貞の影響で地下遺構の調査など、建築史に考古学を応用する姿勢を身につける。1986年、古建築・遺跡の歴史意匠的研究と復原的設計の功績により、日本建築学会大賞を受賞。1987年には「建築は綜合芸術である」を基本に、建築文化・芸術文化の発展を目指す綜芸文化研究所を設立した。


福山敏男(ふくやま としお)

建築史家の福山敏男は、5月20日午後6時13分に肺炎で死去した。享年90。1905年4月1日、福岡県柳川市生まれ。1927年に京都帝国大学工学部を卒業後、造神宮使庁に勤務し、1939年に工学博士号を取得。古代仏教寺院や神社建築の調査に尽力し、出雲大社や四天王寺の発掘を指導。1959年に京都大学教授となり、1971年に退官。1987年に日本学士院恩腸賞を受賞し、1990年に日本学士院会員となった。


藤森照信(ふじもり てるのぶ)

1946年生まれ、長野県出身の建築家・建築史家。東京大学名誉教授で、工学院大学特任教授、東京都江戸東京博物館館長を務める。近代建築史・都市史の研究を経て、1991年に「神長官守矢史料館」で建築家デビュー。土地固有の自然素材を多用し、自然と人工物が一体となった建築物を多く手掛けている。また、建築工事には素人で構成される「縄文建築団」が参加することもある。


村田治郎(むらた じろう)

財団法人建築研究協会理事長で京都大学名誉教授の村田治郎は、9月22日午前9時50分に脳動脈硬化症のため死去した。享年90。1895年9月23日、山口県大島郡に生まれ、京都帝国大学工学部を卒業後、南満州鉄道株式会社に入社。満州で回教寺院の調査を行い、1930年に「満州における回教寺院建築史の研究」を発表。その後も東洋建築史に関する著作を多数執筆し、1934年には日本学士院賞を受賞。戦後は文化財保存にも尽力し、宇治平等院や桂離宮の修理委員長を務めた。没時には京都府文化財保護審議会会長などの要職にあった。

代表的な都市計画家

代表的な都市計画家

以下は代表的な都市計画家です。

安部磯雄(あべ いそお)

キリスト教社会主義者の岡本光晴は、福岡藩士の子として生まれ、同志社で新島襄から洗礼を受ける。1891年にアメリカとドイツに留学後、同志社や東京専門学校(後の早稲田大学)で教鞭をとった。1918年、幸徳秋水らと社会主義研究会を設立し、1921年には社会民主党を結成。1929年には社会民衆党を結成し、委員長に就任。1930年の第1回普通選挙で当選し、その後も社会大衆党を結成し委員長となる。戦後は日本社会党の顧問を務め、早稲田大学野球部の創立者としても知られる。また、嘉納治五郎らと大日本体育協会を設立し、産児制限論者として廃娼運動にも関わった。


池田宏(いけだ ひろし)

明治38(1905)年京都帝大法科大学卒。内務省入省後、三重県警察部長、土木局道路課長、同河港課長、大臣官房都市計画課長、社会局初代局長を務める。東京市助役、東京市政調査会理事、社会局長官、帝都復興院理事、同計画局長を経て、大正13(1924)年京都府知事、15年神奈川県知事。他に同潤会理事、大学講師、各種調査会委員等を歴任した。


磯崎新(いそざき あらた)

1931年に大分市で生まれ、1954年に東京大学工学部建築学科を卒業。1963年に磯崎新アトリエを設立し、大分県立中央図書館など60年代の建築群を実現。その後、90年代には国内外で数多くの作品を手掛け、特に中東や中国、中央アジアにおいても独自の思考と空間を展開した。建築を通じて政治・社会・文化に深く触れ、他領域にも影響を与えた。彼の活動は、建築の枠を超えて思想や芸術との交錯を生み出している。


飯沼一省(いいぬま かずみ)

飯沼一省は1917年に東京帝国大学法科を卒業後、内務省に入省し、土木局や都市計画局での勤務を経て、1923年に米欧へ留学した。留学中にアメリカで地域計画を学び、イギリスで田園都市論への理解を深めた。帰国後は都市計画課の内務事務官や課長を歴任し、都市計画法の普及に貢献。退官後は財団法人都市計画協会の会長を務め、日本の都市計画界で重要な役割を果たした。彼の米欧視察で得た知見は、その後の都市計画思想に大きな影響を与えた。


内田祥三(うちだ よしかず)

文化勲章受章者で日本学士院会員、元東京大学総長の飯田善国は、享年87歳。東京都江東区出身で、1907年に東京帝国大学工科大学建築学科を卒業。1911年から同大学で講師を務め、1921年に教授となり、1943年から1945年まで総長を務めた。戦後は文化財保護委員として活躍し、1972年には文化勲章を受賞した。


神戸正雄(かんべ まさお)

明治10年(1877年)4月19日、愛知県生まれ。東京帝国大学法科大学卒業後、京都帝国大学で助教授、教授を歴任。大正6年に法科大学長、大正8年に経済学部教授に就任。昭和3年に「租税研究」で帝国学士院恩賜賞を受賞、昭和5年に学士院会員に。昭和12年、関西大学学長に就任し、同年京都大学名誉教授に。昭和22年、京都市長に当選し、地方自治の発展に貢献。昭和28年に文化功労者となり、昭和34年(1959年)10月16日、82歳で没した。


越澤明(こしざわ あきら)

都市政策、都市計画、社会資本政策の専門家。1989年に後藤新平の帝都復興計画を発見。著作は岩波新書などに多数、数多くの学術賞を受賞。2001年から2011年まで国土交通省の社会資本整備審議会委員を務め、都市再生特別措置法などの制定に関与。台湾や中国、朝鮮半島の都市研究の先駆者で、各地の自治体のまちづくりを指導している。


佐野利器(さの としかた)

建築構造学者。1903年に東京帝国大学工科大学建築学科を卒業後、鉄筋・コンクリートの構造学を研究。耐震構造学や防災工学の分野を開拓した。1923年の関東大震災後、帝都復興院建築局長として区画整理事業を指導し、日本初の鉄骨構造建築である日本橋・丸善書店の設計も手掛けた。


武田五一(たけだ ごいち)

備後福山藩(現・広島県福山市)出身の建築家で、「関西建築界の父」と称される。近代日本を代表する建築家の一人で、ヨーロッパ留学を通じてアール・ヌーボーやセセッションなどの新しいデザインを日本に紹介した。建築だけでなく工芸やテキスタイルデザインにも携わり、京都高等工芸学校や京都帝国大学に建築学科を創設し、多くの後進を育成。国会議事堂建設や法隆寺、平等院の古建築修復にも関与した。


直木倫太郎(なおき りんたろう)

1876年12月生まれ、兵庫県出身の土木工学者。1899年に東京帝国大学を卒業後、東京市の技手として働き、築港や市区改正に携わる。1905年からは東京市土木課長を務め、1914年には工学博士の学位を取得。大阪市では港湾部長や市区改正部長を経て、1923年から帝都復興院で技監として活動。1926年から大林組で取締役兼技師長を務め、1933年以降は満洲国の国道局長や土木局長などを歴任。1943年に在任中に没した。


西山夘三(にしやま うぞう)

すまい・まちづくりの先駆者であり、科学的実践研究に従事した。彼の生涯は20世紀を通じ、特に昭和戦前から高度成長期にかけて活躍した。大阪で生まれ、京都帝国大学に入学後、研究集団「dezam」を結成し、住宅計画や建築に関する多くの著名な論文を発表した。戦後は住宅改善や農家住宅調査に取り組み、急速な経済発展による環境破壊への批判も行った。また、京都の景観保護や都市交通の確保に関与し、さまざまなプロジェクトの計画も手がけた。1974年に京都大学を退官後も著作や町並み保全運動に精力的に取り組み、晩年には京都駅ビルの景観破壊に対する抵抗運動を主導。

5.その他評価されやすいもの

珍しい書籍や限定版、翻訳書籍や外国語の建築書は評価されやすい可能性があります。
以下は例です。

      
  • ・茶室おこし絵図集(墨水書房)
  •   
  • ・数寄屋おこし絵図(三昧社)
  •   
  • ・コンドル博士遺作集(コンドル博士記念表彰会)
  •   
  • ・桂 KATSURA 日本建築における伝統と創造(造形社)
  •   
  • ・バウハウス叢書 全16冊(中央公論美術出版)
  •   
  • ・(仏)ル・コルビュジエ作品集
  •   
  • ・Bauhaus
  •   
  • ・Charlotte Perriand Complete Works

買取実績のご紹介

弊社で買取させていただいた建築書関連の実績をご紹介します。

建築・土木・都市工学関係

建築・土木・都市工学関係

ご蔵書の持ち主は御父さまで、建築土木学をご専門にされていたそうです。今回買取させていただいた中には珍しい書籍がありました。汚い古いボロボロとの理由で捨ててしまったものもあるそうで、もしかするとその中には今は現存していない建造物の青焼き設計図や写真など貴重な史料があったかもと想像してしまいます。もし、お時間があるようでしたら捨てる前に当店へお問い合わせください。
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文生書院の古書買取について

幅広い分野に精通した担当者が古書を査定

多岐に渡る研究テーマに関する古書や資料でも知識豊富な熟練した担当者が古書の価値を査定致します。
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故人が残された古書(書類や小物なども含む)が部屋や倉庫にまとめられている場合は、出張買取による査定を行い全て一括して評価させていただきます。

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